哲学とは?わかりやすく解説!

哲学


こんにちは。
哲学大好きマンのれたおです。
今回は哲学について、ざっくり解説していきます。


哲学について解説すると書きましたが、そもそも哲学とは何でしょうか?
哲学って何だか、小難しいイメージがありますよね。

私は哲学と聞くと、頭の良さそうな方々が、
しかめっ面をして考え込んでいるようなイメージを持っておりました。

しかし、哲学の世界に入っていくと、今見ている世界がガラッと変わり、
こんなに面白いものなのか、世界ってすごい!と驚いたことが、記憶に新しいです。

そんな哲学の生まれた経緯や考え方を、私なりの理解も含めて、
読んでくださっているあなたにも楽しめるように、紹介していきます。

あなたの生活の一助になれば嬉しいです。それでは、よろしくお願いします。

哲学とは

哲学の定義として、広辞苑には下記のように記載されております。

① 物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問。古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立以降、諸科学の批判的吟味や基礎づけを目ざす学問、世界・社会関係・人生などの原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論・美学などを部門として含む。

②俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方・思想

広辞苑



物事の原理を追求する学問と定義されている場合もあれば、
人生観や世界観など、基本的な思想・考え方を指す言葉としても使われるようですね。


理解できましたでしょうか?
これを見ると、「物事の原理の追求って、どういうこと?」と思われるかもしれません。
物事の原理を追求するとは、例えば下記のようなことです。

  • 人間って、なんで生きてるの?なんで死ぬの?
  • そもそも生きるってどういうこと?死ぬってどういうこと?
  • 世界はどうやって作られたの?人間は?生物は?物質はどうやってできたの?


こんな、何回考えても答えが見えないような問いに対して、
普遍的な真理を追い求める学問が、哲学というものになります。


現代であれば科学が発達しているので、上記の問いにも答えは出せます。
物質は原子が結合して出来ていることや、世界がビックバンで作られたことも、周知の事実です。


しかし哲学は、紀元前600年前にタレスの提唱から始まったとされています。
紀元前600年前なんて、ビックバンも原子も解明されてない環境です。
科学も発達しておらず、本当に何もない状況だったと推測できます。


そんな時代背景がありながらも、現代に繋がる理論を提唱されていることが、
どれだけすごいことか、感じられるのではないでしょうか。


では、哲学の始まりとなる、タレスの提唱とはどんなものだったのか、見ていきましょう。

神話は嘘だ!万物は「水」から出来ている!

タレスが生きていた時代において、
世の中のありとあらゆる物や現象は、全て神話で説明がなされていました。
人間に理解できないものは、「神が作られた」と納得していたんですね。


雷が落ちるのも、「我々の行動が神の反感を買ったから起きたんだ!」とか、
古代の多種多様な生き物も、「神の愛で、あのような形に作られた」と、
何かにつけて、「神!神!神!」というような文化だったそうです。


どの部族でもそのような文化で生きてきたのですが、
ある時、違う民族間で交流が生まれました。


そうなると、これまであり得なかった、面白いことが起こります。

なんと、ある民族で伝わっていた神話と、
新たに交流した民族で伝わっていた神話が違っている
のです!

おそらくそこでの会話は、このようなものだったでしょう。
(あくまでも私の想像です。)

ーーーー古代ギリシャの雨の日ーーーー

A:「神が悲しんでいるから、雲が出来て雨が降ってるんだよねぇ。」
B:「何言ってんの?そんな話聞いたことない。」
A:「え?じゃあ雲が出来るのはなんでなの?」
B:「我々が川から水を取ってこなくていいように、神の愛で雲を作ってくれてるんでしょ?」
A:「何それ初めて聞いた!でも、神が悲しんでいるからだと思うよ!だって空も暗いし!」
B:「いやいや、神から我々への恵みでしょ!」



こうなるともう、どの神話が正しいのかなんて、誰にも判別がつきません。
そこでタレスは、世の中の物質に共通しているものを解明し、こう提唱します。


「いや!世の中(雲)は神が作ったのではない!
世の中の物質、万物は全て【水】から出来ているのである!!」(バァ~ン!)



という風に、これまで神話を元に考えられてきたものに対し、
共通しているものから真理を導き出す、合理的な考え方を広めました。

もちろん、現代に生きる我々からしたら、
万物が【水】から出来ているという説は誤りだとわかりますが、
神話が崇拝されていた世界に、この説を発言することは並大抵のメンタルじゃできません。


そんなタレスから始まった合理的思考からの提唱は、
哲学という学問となり、現代でも探求されているものとなっています。

この合理的思考を元に、世の事象を解明していく学問は、「西洋哲学」と呼ばれています。
「無知の知」で有名なソクラテスや、その弟子のプラトン、アリストテレスなどが有名ですね。



その西洋哲学とは対照的に、合理性などは関係なく、
「いかに生きるか」「いかに体得するか」といった、
人生での実践を捉え、それを教えていったものに、「東洋哲学」があります。


では、東洋哲学はどういったものなのでしょうか。

私とは何か?

東洋哲学のテーマは、「自己の探求」や「私という存在」についてです。
西洋哲学が外の世界を探求することと対照的に、「自分」という内側に焦点を当てています。
自分について考えて、答えを見出すものが「東洋哲学」と言えます。

ここで一つ考えてみましょう。
自分という存在は何なのか。
何を以って、自分と言い切れるのか。



自分という存在は、体があって、存在しています。
そして、自分自身の体は細胞から作られています。
ということは、自分という存在は、細胞のことを指すのでしょうか?

もちろんこれは、違いますよね。
では、自分という存在は、体を動かしている、「脳」になるのでしょうか?


これは肯定したくなりますが、実は違うのです。
脳の仕組みを見ていくと、「脳」が自身の証明にならないことが分かると思います。
(脳の仕組みに詳しい方には、先に謝罪しておきます。間違っていたら申し訳ございません。)


ざっくりとした説明ですが、脳は、神経細胞(ニューロン)によって組織されています。
その神経細胞(ニューロン)の数は、1,000億ほどあると言われています。とんでもない数ですね。


そしてニューロンは、ある一定の電気の値を超えると、電気信号を発信します。
ニューロンはそれぞれ数万個の神経細胞と繋がっており、その電気を通して情報伝達が起きます。


その情報伝達によって、脳は体を動かしたり、思考することが出来ているわけなのです。
つまり、脳はニューロンを介した電気信号によって、動いていると言えます。


ここで、話を「脳」の説明から、自分の存在の話に戻します。


脳が「電気信号によって、思考を巡らせている=私が思考している」と仮定した場合、
私たちは、自分が何かを考え始める前に、脳で電気信号発生させるのでしょうか?
自分で意思でニューロンの電気信号を多めに出して、脳を動かしているのでしょうか?



おそらく、違いますよね?
脳に電気を流して考えよう!としたわけではなく、
私自身が勝手におこなっていることだとおもいます。

そもそも、脳を動かそうと私が考えている時点で、私と脳は別物ということになります。
では、これが私だ!と言えるのは、なんなのでしょうか?


もう一つ考えられるのは、「心」というものですが、
これは、あるかもわからない仮定の話になってしまうので、わからないという回答になります。


つまり、現代でも、「私とは何か」と聞かれると、明確に答えられない現状があるのです。
この疑問に対して考えていく思想・学問が、東洋哲学になります。

東洋哲学は、地球上で最も複雑なもの!?


東洋哲学は、「悟り(=真理に到達した)」という状態からスタートしています。


この「悟り」が、理論ではなく感覚によるもののため、
東洋哲学は、地球上で最も複雑・難解なものと呼ばれています。


どういうことなのでしょうか。


東洋哲学は、悟りを開いた、有名な方々による教えで広まっていくことになります。
東洋哲学において、有名な偉人と言えば、孔子が挙げられますね。


しかし、その有名な孔子の教えについても、
弟子からすれば、何が真実かがわからないのです。
なぜ、悟った者の教えが真実かわからないのか。


それは、その教えが、西洋哲学の様に体系化された定理が元になっているわけではなく、
「感覚による悟り」だと、教えを受け取る者によって、解釈が分かれていったからです。


方程式による説明があるわけでもないので、「悟り」を開いた者から見た世界が、
「悟り」を開いていない弟子の人たちに、わかるはずがありません。
(弟子は、その「悟りに至る方法」を教わっているわけですから。)

ただ、理解はしていなくとも、弟子は師匠の教えを記録していきます。
そして師が亡き後、記憶をたどって記録していた弟子の間で、覚え違いが起こります。


こうなると、どっちの弟子の説が正しいのかがわかりません。
そのような状態で書かれている記録が多種多様にあるため、難解と言われているのです。

長々と説明してしまいましたが、要は「東洋哲学は難しい」と思っていただければOKです。


そんな難解な東洋哲学は、紀元前750年前の、
ヤージュニャヴァルキャという哲人によって、始まっていきます。

梵我一如!世の中に苦はない!


ヤージュニャヴァルキャは、インド哲学におけるウパニシャッド(奥義書)において、
「聖仙」とも呼ばれており、古代インド最大の哲人と称されています。

そして、ありとあらゆる哲学者を呼び、王の前で討論させる「公開討論会」において、
勝利を重ねまくっていた、いわば古代インド最強の論客です。


そんな論客最強の座を手にしていた彼の哲学は、「梵我一如」という言葉で知られています。
この彼の哲学は非常に難解で、私も言葉で理解しているだけです。感覚では理解できていません。
説明を試みますが、読んで理解できなかったら申し訳ございません。


梵我一如というのは、梵(ブラフマン)=我(アートマン)という考え方を指します。
ブラフマンは世界の原理で、アートマンは個人の原理を意味しています。


ヤージュニャヴァルキャはこの考え方を元にして、
「この世はすべてアートマンに他ならない!」
「世界と私が一つと認識できれば、この世に苦しみは無い!」
と言っています。


ちょっと意味がわからないですよね。
人々が生きてきた古今東西で、苦しみは無くなっていません。
このような現状は一旦横に置いておき、彼の論理を見ていきましょう。


アートマンは個人の原理であり、個人の原理(アートマン)とは、「認識するもの」です。
認識するものとは、文字通り認識する「モノ」のことです。
ちょっと意味わからなくなってきたと思います。


私たちは、普段生きていて様々な認識をおこないます。

  • 朝起きて、自分の体を「認識」し、自分が部屋に居ることを「認識」する。
  • 床・手・足を「認識」して立ち上がり、スイッチを「認識」して電気をつける。
  • 部屋が明るくなったと「認識」し、窓を「認識」して開けると、陽の光を「認識」する。


この一連の流れの中で、「認識」をおこなっている主体が、「認識するもの」です。
ヤージュニャヴァルキャは、私(アートマン)は「認識するもの」であると提唱したのです。


そして「認識する主体」は、他者に「認識されること」は無いのです。
どういうことでしょうか。


例えば私は、私が今見ている「目の前の風景」を奇麗だと認識しています。

しかし、「目の前の風景を奇麗だと認識している私(認識する主体)」は、
他者からは確認できないため、認識されることは無いということです。


意味わからないことを書いてるなぁと思われるかもしれません。
説明していくので、もう少々お付き合いください。


話を遡らせると、東洋哲学は「私」という存在について考えるものでしたね。
先ほど、自身の存在が体や脳ではない、ということはご説明したと思います。
そして、他者から認識できるのは、「私の体」です。


つまり他者は、「私の体」を認識して「私」だと思っているわけで、
「認識する主体」としての私を認識しているわけではありません。



ゆえに、「認識するもの=私」は、「認識されること」が無いのです。
理解できましたでしょうか?この上ないほどの、難解具合ですね。


ヤージュニャヴァルキャの提唱の中で、「認識するもの」の説明をおこないました。
まだまだ序章であり、彼の提唱の肝はここからです。


「この世はすべてアートマンに他ならない!」とは、
この世の全てが認識する主体ということです。

私という認識する主体が、認識されることが無いことと同様に、
私も他者の認識する主体を認識することはできません。

(他者がどう物事を認識しているかを、私がわからないことと一緒です。)


そして、「世界と私が一つと認識できれば、この世に苦しみは無い!」とは、
世界も私と同様にアートマン(認識するもの)であれば、互いに認識できないので、
苦しい、悲しいといった感情が生まれること自体があり得ない、と言っているのです。


この最後の部分が、到底理解できないと思います。
私にも苦しみはあると認識しているので、私も理解できていません。笑


説明を試みてみます。

世の中は、私からしたらすべてアートマンなので、認識することが出来ません。
そして、私が抱く苦しみや悲しみ、辛いといった感情は、他者からもたらされることが多いです。


上司に怒られた・・・
恋人に振られた・・・
友人に嫌われた・・・



こういった感覚はすべて、他者という、私が認識できない、認識するものから発生しています。
認識できないのであれば、苦しみという感情が生まれるわけがありません。
私は「苦しみ」も認識できません。つまり、私の勘違いということになります。


これが、ヤージュニャヴァルキャが提唱した、
「世界と私が一つと認識できれば、この世に苦しみは無い!」という言葉の意味です。

彼は旅立つ前に、妻にこの言葉を残し、旅に出たそうです。
そこから消息を絶ったので、その後の逸話は残されていません。


どうでしたか。理解できたでしょうか。
難解な東洋哲学の、難解さを感じていただけたでしょうか。


この真理にたどり着き、体得できれば、この世に苦しみは無くなります。
私は体得できていませんが、このような考え方があると知るだけで、気が楽になっています。


何かしら不幸があったとしても、
「それはアートマンだ!私が勘違いをしているだけで、そんなことは起こっていない!」
と思うようにしています。笑



ちなみに、東洋哲学では「理解する」ことと、「悟る」ことは別物です。
理解していても、悟ったとみなされるわけではありません。


じゃあ、どうなれば悟ったことになるのかというと、
「感覚」によるものなんだとか・・・。これは、難解とされているのも当然ですね。

まとめ

これまで哲学という学問の全体像と、西洋哲学と東洋哲学を解説してきました。
いかがだったでしょうか。


哲学は、世の中の事象について追及し、解明していくことでしたね。

さらに西洋哲学と東洋哲学に分かれており、
それぞれでテーマが違うこともお分かりいただけたかと思います。


人類はこれまで生きてきた中で、
世の中の真理を追究し、ある程度答えを出してきています。

その中には、現代を生きるにおいて欠かせない考え方も沢山あります。
そういった考え方も別の記事で紹介しているので、よければ見て行ってください。


これを機に、あなたの気持ちが少しでも軽くなれば幸いです。
それでは、お読みいただきありがとうございました。

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